2013.02.15 Friday

デザイナーですら芸術は"無償"なのか?

まずこのコラムを読んでいただきたいです。

【デザインはなぜ無報酬とされたのか】
http://www.makion.net/makionlog/item_437.html

さて、この記事を読んでうんうんと頷けたでしょうか。
はたまた同意できない、と思われたでしょうか。
私と同じ考えや思いを抱いた方はいらっしゃるでしょうか。

このコラムを読んですぐに考えを書き起こし、
時間が無い中まとめたので少し興奮気味です。
冷静に読み解けていない部分があるかもしれませんが
そこは随時指摘してくださると有り難いです。

「デザインは設計であり報酬を得ることは当然で、芸術は自発的な文化であるから"無償"だ。」
ということが書かれていた。
このコラムはデザインの無報酬化(ボランティア化)を危惧するような内容であったが、
その内容に「芸術であれば無償であることが当然だ。」なんてことも書かれている。

このデザインの無報酬化の一因が
デザイナー自身の「芸術であれば無償であることが当然だ。」という意識に見え隠れしていると私は感じる。
そしてデザイナーである筆者ですら「芸術は無報酬」とまで言ってしまうことに
"芸術の無報酬(ボランティア)化"の深刻さも垣間見える。

今日日の芸術とデザインの明確な違いは難しいところではあるが、
それは対外的な部分についてであって、それぞれの内情を比べて有償・無償の天秤にかけるのはナンセンスだ。
その対外的な部分の相違点は内情を知るそれぞれの目線に立つと少し見えたりもするかもしれないが、
それを判断するのは大抵の場合はデザイナーでもなければ芸術家(アーティスト)でもない。

つまり報酬を出す(判断する)依頼主に「芸術」と「デザイン」の違いは
さほど大きな問題ではない、ほとんど関係のないことなのだ。

現に、芸術家(アーティスト)がデザインのような仕事をするし
デザイナーが芸術と呼べるような作品を出すこともある。
だからこそ"デザイナーの芸術軽視"は危ない。
それは自らの仕事を軽視することに直結しかねない。

コラム中の「デザイン」についての話はほぼ同意できる内容で意義無しだが、
「芸術」に関する話ではやはり無理解を感じる。
そしてそんな意識がもしデザイナー全体のマジョリティであるのなら
デザインのボランティア化に拍車をかけているのはむしろデザイナー自身ではないかと感じる。
それはデザインにしろ芸術にしろ最終的には"付加価値商売"であると私は考えているからだ。

その付加価値を大きく決定付ける"芸術性"のようなものを否定するのであればデザインは
相場ではなく技能検定や資格による固定価格化が進むだろうと考える。
しかしそうならないのはデザイナー個々の「センス(≒芸術性)」が
付加価値として存在し得るからではないだろうか。


このコラムを全面否定するつもりもないですし、
むしろ仕事としてのデザインという面では大いに正しいと思います。
もちろん"デザイン"を中心に話を展開するために"芸術"をたとえ話として引き合いに出されたもので、
そのコラム内で「芸術とは何か」を議論したものではないのは承知しております。

しかし、だからこそ記事に私が直接コメントをするのではなく
芸術(ないしはアート)とデザインに関する私の個人的な意見を述べるきっかけとして、
また芸術家(アーティスト)とデザイナーのそれぞれが持つイメージの相違について
考えるきっかけとなればと思いこのコラムを紹介させていただきました。


※文中の「芸術」と厳密な意味での「芸術」と「アート」を区別すると話は大きく変わるかもしれません。
ほんとうに厳密な議論をするのならまずそこから始めるべきなのかもしれませんが
コラムの文脈的には私の直感として「アート」としても差し支えないと考えました。
そのため「芸術家(アーティスト)」と表現しております。

ちなみに引用させていただいた記事を書かれたのは
私の母校でもある成安造形大学準教授のまつむらまきお先生であります。
記事公開前に一報差し上げるのが礼儀だとは思いつつ、
身勝手にも引用させていただきました。この場を借りてお詫び申し上げます。
また、私自身の作家として再考すべき点を発見でき感謝しております。
無礼をお許しください。
2011.07.03 Sunday


今日は嵯峨芸術大学で行われた「circulation3」という展示を見てきました。
本日最終日で偶然にも合評のタイミングに遭遇したので、そのまま見学させてもらった。


「circulation3」
20世紀以降の美術作品を再考察し、もう一度作ってみる。
時代、作者がかわるとそれらの作品はどのように変化するのか、
その「ずれ」の中に今後の美術の可能性が発見されることを期待している。
(circulation3冊子より引用)


要するに、20世紀以降の作家研究とそのオマージュを行うものだ。

いんやー楽しかった。
人の作品を理解するのって難しいよね。
そばにいる友人や、先生の作品のことすら
本人からいくら話を聞いても「分からないもんは分からない」のだ。
見ず知らずの作家のことを文献や評論なんかを呼んで研究しても
それを完全に理解できるはずもない。

しかし、不完全でも作家研究というプロセスを経ることで
その本質の片鱗に触れ、自分なりの理解と解釈でオマージュするってのは
とても勉強になるだろうな。

さて、今日は先日の「コンセプトとは何ぞや」の補足のような形になるかと思う。

5名ほどの作品の合評を見学させてもらった。。
どうにも全体として、沢山の要素を詰め過ぎているようだった。

研究した作家の「プロセス」と自分の「プロセス」のブレンド、
それから見た目のカッコよさや存在感。

どれもこれも大事なんだけど
どれもこれもが主張しすぎて結局どれも中途半端感は否めん。

自分の表現したかった部分以外は
もっともっとストイックになっていいんじゃないかなぁ、なんて思う。

表層的な部分に自分の気持ちが持って行かれちゃったんだろうなぁ。
いうなれば「カッコつけすぎ」ってとこだろうか。

確かに作品の第一段階として「見た目」と言うのは重要で
そこで人を惹きつけられるかってのはかなり大きな部分だろう。
ただし、それは作品の本質を保持してこそで
自分がほんとにその形を表現したいのか、という疑問はまず抱くべきだ。

そこで大事なのがストイックさなんだと思う。

何が言いたいのかカッコつけずにすぽーんと言えるってのは
なかなかむずかしいもんだけど、できるだけ飾りっけなく
露骨に表現しちゃった方がいいのかもしんない。


いろんな本を読んでいると
作家の解説が妙にややこしく難しかったりする。
時代背景だとかジェンダーだとかプロセス、コンセプト云々と
まーほんとややこい。

そういうものを沢山読んでいるとどうにも
難しく考えることが正しくカッコいいことのようにも思えてくる。

が、しかし。
たぶん最初は何かに対するアンチ精神であったり
もっと単純な「あ、コレおもろいかも」というだけかもしれない。

かく言う私は
「あ、これおもろいかも」程度のザックリとした感覚を
手作業の最中で詰めていくという方法を取っている。
渦巻きを外側から中心に向かってグルグル入り込んでいく感じ。

ソレに対して鑑賞者から
「こうだよね、あーだよね」と言われて初めて
「そうなのかも」と思う事もよくあるこった。

最初から全てを把握して作品を作ることを目標にすると疲れちゃう。
途中で飽きちゃうし、いつの間にか別物になっていたりする。

そうならない為にも、ブレであったりズレであったり
そういう自分を許容できる余裕が必要で
その余裕を生み出すのが「楽しさを持続させる為のコンセプト」なんでないかな。

コンセプトには何を言われても怯まない堅硬さを求める人がいる一方で
人の言葉や感じ方を上手く自分で咀嚼し吸収できるような柔軟さがあってもいいと思うんだ。
(明らかに私は後者やな。)



結局何が言いたかったのか
ちょっと疲れて頭が回ってないので
まとまってないだけど、最後にひとつ。

作品の中に生まれた矛盾を消そうとするのではなく
その矛盾とうまく付き合うって大事だと思うの。
そして、結果的に説得力のあるものが作れれば
そんな矛盾なんか気にならなくなるもんだ。

んがふふ。
2011.06.22 Wednesday

コンセプトとは何ぞや?


久しぶりに長い記事です。
この記事は作品を制作するうえで
何故か必要とされる「コンセプト」と言うものについて考えてみた。

記事の内容は

・【コンセプトについて考える】
・【コンセプトってなんやねん】
・【対話的なコンセプト】
・【作品と感動を持続させるためのコンセプト】
・【まとめ】
・【蛇足】

の6部構成にしてみました。
とはいうものの相変わらずの口下手。説明下手です。
「こいつ何が言いたいんや」と思ってもまぁ御愛嬌ってことでよろしく。

さて、では本題に入ります。



【コンセプトについて考える】

最初は何事も「楽しい」とか「キレイ」とか、
そういう直感的な感想から事を始めるのはとてもよい事だと思う。

小難しい理由や言い訳なんて要らない。
しかしね、その「楽しい」を持続させていくには、理由を追求する必要がある。
ソレを「めんどくさい」とおざなりにしてしまってはそのままマンネリ化して、
陳腐なものになっていく。

そこで必要になるのが「コンセプト」だと私は思っている。
現代アートにおいて、「コンセプト」の話をすれば、
なんとなくモダンアートやポストモダンのようなところから理解しなければならないとか
コンセプチュアルアートの概念を理解していなければならないとか
とても評論的な視点を理解していないといけない気がする。

しかし、私はそれらを理解する事が必ずしも正しいとは思わないし
それらを理解すれば「コンセプト」というものが理解できるのかといえば、否だと思う。

さて、なぜこのような話を突然し出したのかというと
ここ数日、美大芸大では合評週間でもあったのだろうかtwitterのTLで
「コンセプトってなんだ?」「そんなの要らねー!直感が全てジャー!」
というような雄叫びが聞こえてくる。

あぁ、確かに私もこういうことで悩んだなぁと
ほんの数年前のことを懐かしんでいたりした。
教授や先輩、本や論文に「コンセプトがどーのこーの」と説かれていると
それだけでなんだか嫌気がさした時期もあったし、
今でも「うにゃーわけわからん」と頭を抱える時がある。


【コンセプトってなんやねん】

そもそも「コンセプト」とは何なのか。
辞書によれば「概念」だとか「発想や観点」のことをコンセプトと言うらしい。
ふむ、「概念とかそんなあいまいなもん説明できねーよ」と言うのもごもっともってカンジ。
しかし、このまどろっこしい「コンセプト」というものの捉え方を、
私なりの解釈と言葉を使って考えてみようと思う。

大まかには最初のほうで話したとおり「楽しさ」を持続させ、
脱マンネリするための道具だと私は思っている。


コンセプトには大きく分けて二つの意味がある。

・ひとつは対話的なコンセプト
・もうひとつは作品と感動をを持続させるためのコンセプト



【対話的なコンセプト】

直感的に「楽しい」「キレイ」と感じるものを、
直感的に自分の作品へ投影し、それを表現することは何も間違っているとは思わない。
自分の受けた感動を作品を通して誰かへ伝えられるってのはアートの特権かもしれない。
しかしその感動を作品だけで全て表現しできるとは思えない。

多くの人に作品を語られ、評論されている作品をならまだしも、
どこぞの学生や若手作家の作品でそれがなされるというのはまず有り得ない。

そこで必要なのが「何に感動して、どう表現したのか。」という作品解読のヒントだ。
そしてこれが作品の言語化された「コンセプト」だと言えるんじゃないか。

それを理解してもらった上で、それ以上の感想だとか評価は鑑賞者なりに任せればいい。
そしてそれこそ対話していいくなかで言語的に深めて行けばいい。

こちらから何のアプローチもなしに
「鑑賞者に自由に感じてもらえばいい」ってのは、自分の思いや気持ちを蔑ろにして
ある種の「逃げ」なんじゃないかと感じることがある。
自由に感じてほしいのなら「何かの軸」が必ず必要であるし、この場合はその「軸」がコンセプトとなる。

「そんなことわかってるんじゃーい」ってツッコミを喰らいそうだけど
「コンセプトってなんぞ」みたいな話をするとほとんどの場合に
哲学やなんかの評論的などこぞの本から引用したような話になる。

そんな小難しい話し方しなくてもいいのにな、と思うとこがよくあるんだ。

もちろん作品によってはそういう難しい話であったり
ロジカルな思考や思想を語るべき場合もあるだろうけどね。

(話が長いね)

【作品と感動を持続させるためのコンセプト】

ではもうひとつのことを書く。
これは自分のためのコンセプトだ。

何かに感動してそれを作品にした。その全ての工程を直感を頼りに成したとしよう。
こりゃすっげーおもしろいと思うよ。
実際私も直感だけで作っちゃったって作品をなんか腐るほどあるし。
だけど、そういう作品に限って次に続かない。
また別の感動へ気持ちが移っちゃって、先ほどの感動なんてどこへやら。
こうなると先の作品と時系列で見た時に一貫性がなく、
それは自分にとっても作品の一貫性が見えにくいんじゃないかと思う。

一度の感動を一度で発散してしまうのではなく
一度の感動を更に発展させていく為に
「何に感動したのか」ということが重要ではないかと考える。

物凄く簡単な例にすると
「夕日をみて美しいな」と感じた時、その美しさとは何なのかと考えてみる。
そこで「暮れていく焦燥感が美しいのかもしれない」という仮定を立て
ソレについて「じゃぁ他に焦燥感のある美しいモノって何だろう」と視野を広げていく。
それが花であったり、消費されていく機械であったり、はたまた生死観にもつながっていく。

この例は他の作品への発展していく様子を考えてみたが
「焦燥感のある夕日に感動した」という仮定から「夕日そのもの」をモチーフにし続ける場合にも大切なこと。

ここで何故「仮定」と書いたのか、と言う事も重要で
「コンセプト」とは常にマイナーチェンジを繰り返し、バージョンアップしていくものだと私は思っているからだ。
「今」感動した事実は、明日には崩壊している可能性があり、その崩壊の後の感動は
もちろん昨日までの価値観とは別物になる。


【まとめ】

ここまで書いといて自分でもワケが分からなくなっている(笑)
なにせ、私自身も「コンセプト」だとか「理由づけ」だとか
そういうものを人に伝えるのが苦手なんだもの。

しかしだ、苦手だからと言って避けて通れる道でもない。
作品が外へ出ると言う事はそこに第三者の存在があって、
コミュニケーションが生まれるってことだ。



要は何が言いたかったかというと

「何故」という部分を明確にすれば、それはそのまま「コンセプト」として
十分な役割を果たすということ。
そして「コンセプト」とは可変であるということだ。

美学哲学、評論本に書かれていることってなんかめっちゃ難しい。
しかし、それを読むことで先人たちの美に対する考え方やプレゼン方法を学ぶことは沢山出来る。

「コンセプト」とか何やねん。
と思う前に、沢山本を読んだり、沢山の人と話して
自分なりの「コンセプト」の在り方を模索して行けばいいんじゃないかな、と思います。
「各々好きなようにやればいいじゃん」ってとても便利な妥協の言葉だよね。

【蛇足】

作品は商品だ。
商品には付加価値が無くてはならない。
その付加価値こそがアートにおける「コンセプト」であり
プレゼンする時に自信をもって消費者へ伝えなくてはならないことだと思う。

んがふふ
2011.01.16 Sunday

ボカロ批判と現代美術批判




「ボーカロイド」と「現代美術」
共通点の無さそうで在りそうなこのふたつに対する批判には
ちょっとした共通点があるんじゃないかと感じた。

ハッキリ言ってこれから私が書くことは
ちょっと偏見的かもしれないし、勉強不足もあって
すっげー的外れなことも言っちゃうかもしれない。
だけど、私の個人的なメモだとおもって許してつかぁさい。

何が似ているか。
結論から言うと「芸術や音楽に対して幻想を抱いている」ことだと思うの。

ボーカロイド批判の中に
・デジタル音声
・歌詞が厨二
・歌詞が聞き取り辛い
・素人くさい
・全体的に痛い
・ファン層がキモイ
などなど、挙げだしたらきりがないほど沢山あった。

しかしながら、これはどのジャンルにも当てはまっちゃう。
熱狂的なファンなんてどこでもそんなもんだと思うし
歌詞もどのジャンル見たって痛いもんは痛い。
「おっさんがこんな曲作ってると思うと寒気がする」
ってのをいくつか読んだんだけど
彼らは他のアーティストが作詞作曲を
自らやっているとでも思っているのだろうか?
これらは完全に偏見のフィルターと無理解によるものだと感じた。

そして現代美術批判についても考えてみる。
現代美術に対しての批判でよく見かけるのが
「イミガワカラナイ」というもの。

意味不明なものを作って「これがアートです」
なんて言っちゃってるのがほんとにアートか?
アートってもっと単純明快で万人が受け入れられてこそアートでしょ?
みたいなのをよく目にするの。

この両者の共通してある基本的な見方。

例えば、クラシック音楽ってほとんどの人が
「なんだかよくわからないけどきっと良い曲なんだ」
みたいな意識があると思うんだけど
これは学校の教育で音楽という科目が教えたから
好き嫌いはあるにせよある程度の共通認識が形成されているんだと思うの。
たしかに技術や表現力の素晴らしさってのがあるんだけど
それを全部理解しようとはしないじゃない。

J-popやロックのような他ジャンルの音楽には
幼いころから(テレビやラジオ、街中でも)触れているから
何の違和感もなく聴けているんだと思うのね。
そこへ未知のジャンルである「ボーカロイド」が出てきた。
「人でない物が歌を歌った曲」という耐性の無いモノに触れてしまい
急に「え?何それ?ワカラナイ」となる。
しかし、「ワカラナイから嫌い」とは言えないので
さっき言ったような(こじつけの)ボカロ批判が出てくるわけだ。

現代アートも同じで
学校の美術教育の中で古典美術を重点的に教えられる。
これは優れた作品ですと教科書でもテレビでも言っている。
これも技術や表現力の素晴らしさは"感じる"ものであって
実際にその方法論や時代背景を全て熟知しているわけではない。

そして、漫画やイラストなんかはこれもポップ・ミュージックと同じように
幼いころから慣れ親しみ、考えることはせずとも"感じることができる"
ローコンテクストな感覚がある。

さて、そこに現代美術。
油絵とか水彩画とか学校で教わったモノ以外の素材で作られ、
技法どころか形や表現方法までも"教わったものとはちがう"
「ワケノワカラナイモノ」になる。


ボーカロイドのことを言いかえるならば
私は「現代音楽」と言って良いと思うし
漫画だって「現代美術」なんだ。

ワケノワカラナイモノの受け入れ方が分からないので
暫定的に理解をしているつもりになることで自分たちの不安感を
払拭しようとしているんだと思う。

現代美術を観る時に「何がいいのか分からない」と言う人に対して
「ちゃんと勉強しないと面白くないと思うよ」と言うのは
やはりそれに対して理解が必要だからだ。
そして先ずなにを理解すべきかと言えば
「アートは、不変的に、普遍的に、誰でも楽しめる」なんてのはただの幻想だってのを
ちゃんと理解してもらわなきゃならないと思う。

ボカロ厨と呼ばれる人たちはボカロの楽しみ方を知っている。
キャラクター性やその技術、作曲者という背景・・・いろんなものを知っている。
音楽というジャンルに新しく出てきた「ボーカロイド」は
その技術は別段目新しいものではなく、テクノだとかエレクトロニカだとか
デジタル技術を用いた音楽はすでに沢山あるしね。


音楽も芸術もローコンテクストな部分までは
誰でも簡単に楽しむことができるし、
そういう部分があるからこそボーダレスになれる。
しかし、その先にある"楽しみ方"みたいなところへ昇華させるには
ルールが必要で、そのルールを理解することで"遊ぶ"ことが出来るようになる。
時代背景、作者や鑑賞者の関係、立場、役割・・・
そういうものを理解することでゲームが成立するように"楽しみ方"を知らなきゃいけない。
"走るのが楽しい"というのはローコンテクスト
ルールを知ったうえで楽しむの"鬼ごっこ"というハイコンテクストな"楽しみ方"。

ハイコンテクストを理解することって実はとても簡単なんだと思う
なにも特別なものは必要ない、誰でも理解できるもの。
ただ、理解することをメンドクサがっているだけなんだと思う。


ちょっと長くなったけど今の私の頭の中はこんな感じで混沌としております。
こんなまとまらない話をしてしまってほんとごめんなさい。
しかしどっかに書いとかないと頭ん中パンクしそうで、とり合えず吐き出した。

文章をまとめたりする体力が無いので、ごちゃごちゃのままだけど勘弁してね。

実のところ他にも多角的に考えていることがあるんだけど、それはまた別の機会に。
こういう考察はずーっと長く続けていきたいし、明日にでも考え方が変わっている可能性すらある。
しかし、現時点での暫定的な答えとして残しておこうと思い、ここに書いた。
それは自分が後々見直すためでもあるし、いろんな意見も聞いてみたいというのもある。

批判に対する否定でも肯定でもなく、一つの意見ということで。

んがふふ

【追記】2011.1.17 9:50
非常に沢山の方々に読んで頂いているようで嬉しいです、ありがとうございます。
多くの意見や考え方など、反響も多くとても勉強になります。
まだまだ未熟な考え方なのは承知の上、このような記事を書きましたが
多角的な考え方や捉え方を知る良いきっかけになっていると思います。
感謝、感謝。
2011.01.14 Friday

高められた考察「直感」



「直感で描きました。」
「直感で撮りました。」

直感ってカッコいいっすよね。
計算されていない構図や色遣いに
その人のセンスが全部出ているみたいで。

でも"直感"ってすごく難しいことだと思うの。

結論から述べるとね。

「直感は無意識レベルまで高められた考察」

だと思うのです。

考えに考え抜いて、沢山の経験を積み
より良い作品を作ってきた人には
頭の中に今までのデータが蓄積されている。

それらが無意識にまで浸透した時に
"直感"として引き出されるのだと思う。

エモーショナルな作品づくりも同じで、
その裏側には膨大な量の作品や習作がある。
ただその時の感情に任せてテキト―にやっているわけじゃない。
いや、テキト―にやってるんだとしてもそれが適当になるの。

そういうきちんと考え抜かれて完成した感性があるからこそ
直感で作られた作品はその人のセンスを如実に表すのだと思う。
逆にいえば経験値の無い状態で「直感でつくりました」
なんていう作品は"所詮その程度"になってしまうんだろうな。

"直感"という言葉をカッコつけに使ってはいけない。
と、感じる今日この頃でした。

私はまだまだ直感でモノを語れるほどの経験値は無い。
まだ何年何十年かけてでも、少しずつ経験を積んでいきたい。

PS.最近「エンプティ」という言葉にはまっております。
昔から仏教の「空」の概念が好きで、それと通ずるものを感じております。
頭の中がまとまればまたその時にでも話します。

2010.12.06 Monday

間違いを間違いと言えない過ち「バカたちの戯曲」



最近マジで我慢の限界を感じる。

最初に断っておくが
私の勤め先はデザイン専門の会社ではない。

そういう意味で"デザイン専門職"は私一人だ。

webデザインからロゴやシール、写真の撮影や加工も
基本的に全部私がやる。
そういう知識や技術も基本的に私しか知らない。


そんな会社でデザイン業務をしていると
これから話すような最悪の状況が生まれる。

先ず、私はデザインにおいての視認性や機能性を考える。
ソレがデザインであることの基礎だと思うし
その基礎が出来上がって初めて"カッコよさ"を追求できるものだと思う。

だから先ず私が提案するのはその基礎に忠実であろうとしたものだ。
そこからどのように合理的に"カッコよさ"を見せていくかが重要。

しかしだね。
そのデザインに対して"アドヴァイス"してくれるのは
オレ様気質なオジサンたちなわけだよ。
「デザインなんかチョロイ」
「技術が無いだけで感性はあるんだ」
「お前みたいな若いやつよりも、良いものを沢山見てきてる」
という変な自負がある厄介者からの"アドヴァイス"を頂くわけだよ。

そうするとまぁ私は所詮雇われている側だから、それに従わなければならない。

ある程度抗議はするものの「若僧の知恵」なんざ門前払いさ。
いくら専門知識を積んでいようが「年の功(ほんと歳だけの)」にねじ伏せられる。

そこでそれ以上逆らったら私は職を失いかねないからね。
しかたなくそれに従わざるを得ない。
金の権力のいうものには勝てないでござる。

そんなこんなで的外れな指示を従順にこなしていたら
そりゃゴテゴテの奇怪なデザインが出来上がるわけさ。

そして良質のデザインがふと目に入って
自分たちの指示したデザインが"かっこ悪い"ことにようやく気付いたとき
その責任(責任というほど重くはないが、誰が悪いかってこと)は
当然のように製作者である私に来るわけだ。

「お前はデザインを分かってない」と。

もうね、ハラワタどころか脳ミソが煮えくり返るよホントに。

世の中「金」と「権力」だなと痛感させてくれる。
そういう意味では"社会勉強"をしているわけだけども
気に食わないものは気に食わない。
ここで何も感じなくなったら私というアイデンティティは死滅するだけだろう。

反発精神が今の私を生かしてくれている。
2010.11.28 Sunday

アンパンマンは君さ!



京都は漫画ミュージアムの「やなせたかし」展へ行ってきた。
氏が経験した戦争体験が地盤にあのアンパンマンがある。
空腹が辛かったと語り、その経験が後にアンパンマンというヒーローが生んだ。

以下、私がこの展覧会で感じた感想・見解なので
軽く聞いてもらえるとありがたい。
異論は認める。
正義の捉え方なんて人それぞれだ。


氏は悪と戦う戦士を描かなかった。
(バイキンマンは悪というよりもヤンチャな悪ガキってところじゃないかな。)
悪と戦うヒーローは世の中に山ほど溢れ、悪と戦い、かっこいい存在であったが、しかし・・・
それは現実的な正義であり、ヒーローかと問われると確かに現実味は無い。

スーパーヒーローとしてのかっこよさとしては申し分ないヒーロー達。
ソレらが戦う悪は存在が漠然としていて大きすぎる。
(ここでは「悪とは何か」という問いは割愛する。)
大きな悪と戦うのは確かに正義だ。
侵略者であったり犯罪者であったり、人道的・道徳的に外れている相手を懲らしめる。

しかし初期のアンパンマンはちがった。
ただただ腹の減った物にアンパンを配る。
不格好でちょっと頼りない。それなのに誰より優しいオッサンだった。
(しかも自分でアンパン作るからマントが焦げてんだぜ。超イカす。)
そして後のアンパンマン自分の顔を食わすという、超自己献身的な正義を見せる。

「しんでもいいんだ。そのために生きてるんだから。」

そう言って顔を差し出すアンパンマンの顔は、とても厳しく見えた。
それは氏の戦争体験談を読んだ後だったからだろうか、
しにそうなくらい空腹な時に、食える頭を持ったアンパンマンは
自己犠牲というなんとも非現実的な正義を見せつけるのに
受け入れざるを得ない圧倒的正義を感じさせた。

ここで私は気付く。

「悪は"死"そのものなんだ」と。


スーパーヒーローの戦う侵略者や犯罪者も
その裏にヒトの死を孕んでいる。
それらワルモノが悪なんじゃないんだね。
これがバイキンマンが"悪"ではない理由。
ただの悪ガキは"悪"そのものではない。
(でもやっぱり悪が何なのかについては今日は深く考えないことにしよう。)

"餓死"という超根本的であり超現実的な悪と戦う戦士
アンパンマンは食わすことで生を与える正義の味方なのだ。

それは氏の書いた「てのひらを太陽に」の歌詞からもわかる。
生きることは正義だ。

そしてアンパンマンは顔を全部食われたところで死にはしない。
新しい顔を作ってもらえればまた元気100倍だ。

それは完全な自己献身ではない。

自分も死なずに、誰かを助ける。
それを自分の喜びとして、生きがいとしている。

空腹で死にそうな時、目の前に現れた丸顔の怪人は、「自分の頭を食え」と言う。
今日もたぶん世界の何処かでアンパン食って生き延びた人々がいる。


ほんとにそんな気がする。


なんて奥深いんだアンパンマン。

自分もアンパンマンのような正義を成せるかというと
絶対無理って言いきっちゃうね。

でも、ちょっとの思いやりが、
誰かの中で正義になればいいんじゃないかな。

私は私のそばにいる人たちの正義になりたい。
そしたら私もアンパンマンだ。

なんちゃって。



「ぜんぶ!やなせたかし!」
京都国際漫画ミュージアム
http://www.kyotomm.jp/

12月26日までです。
いろいろと考えさせられるものがあります。是非!

まとまらない話だったけど
後の自分の為のメモってことでお許しを・・・。
2010.11.17 Wednesday

流動的アイデンティティ



ここ数日天気がよくて青空が綺麗。
(写真は最近のものじゃないけどね)

久しぶりにアイデンティティのお話。

小学生ぐらいの頃って
今が永遠に続くと思っていた。

今はもう
この「今」という時間は永遠じゃないことを知っている。

しかし。しかしだよ。

「今が永遠に続くんじゃないか」って感覚は
大人になってもおじいちゃんになっても
変わらないものなんじゃないだろうか。

永遠じゃないということを知ったからといって
その"永遠"という感覚は失われないものだろうなぁとか。

それは成長しないとか、変化が無いという意味ではなくて
私と言う存在がアイデンティティ(自己同一性)を持った確固たる存在だ
という事実が変わらない、ということなんじゃないかな。

ヘラクレイトスが「同じ川に2度入ることはできない」と言ったように
同じ流れの中で同じ時間をもう一度体験することはできない。
そしてその流れの変化と同時にアイデンティティも流れ、変わるものだと感じた。

自己同一性とは変化するものだ。
昨日の自分と今日の自分が違うように
アイデンティティだって流動している。

そこにある唯物的(物質的?)な存在がアイデンティティではなくて
自分という大きな流れがソレなのかもしれないな。

だからこそ昨日とは違う自分に気付き
自分の成長を確信できる。
途切れることの無い大きな流れを自分の中に感じる。

のかもしれない。
2009.01.24 Saturday

私的美学:No.011「キセキのかちは・・・」



予測され予想された奇跡や偶然はもはや偶然でも奇跡でもないのかもね。

偶然とか奇跡とかあまり好きくないし。

ことを為せばことは成るのだから。

人事を尽くせば天命を待つまでもない。


予測・計算・確率から予想された時間配分で行動すればいい。
偶然は起こすものである。


それ即ち、必然である。

そして予想して期待した偶然が起こる。
2008.12.13 Saturday

私的美学:NO.010 「記号に溺れる」


まず最初にひとつキーワードを決める。
そしてそこから考えたこと思ったこと見えたものをひたすら文字にする。

枝分かれしたり、まとまったりバラバラだったりする記号の海という大きな集合体ができる。

私はそこに溺れたい。

真っ白な奥行きのある空間に雨のように記号が降り、樹木のように記号が萌ゆる。
霧のような記号につつまれ、光のように記号が射し込み、影のような記号がおちる。

変な表現かもしれないけれど、記号化された情景はいわゆるCGなわけで、
極端な話が、脳内で電気信号に変えられた現実の情景さえも記号化されたものなんだな。

それがそれであるという認識は、体験と経験の積み重ねである記憶という情報で認知されているのかな?



なるほど、もしかしたらイデアとはこうゆうものなのかもしれない。


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